当院における市民公開講座の目的
皆さんにとって医療はどんな存在でしょうか。風邪をひいたときに近所のクリニックに行くくらいのお付き合い?高血圧で毎月通う身近な存在?およそ怪我や病気で困った時に行く場所といったイメージでしょうか。
医療の一義的な役割は社会における後方支援です。皆さんが健康管理を医療に任せ、安心して社会で活躍できるようにお手伝いすることが医療の本来目的です。その役割を果たす上で最も大切なのが医療への信頼感です。
信頼感を育む上では、皆さんの期待に医療が応えていくことが大切です。しかし正しい医療の実践が必ずしも皆さんの意に沿わないことも少なくありません。いつも風邪に抗生剤が効くと感じているのに処方してもらえなかったり、期待した検査もないまま「大丈夫ですよ」と言われて不信に感じたり、あるいは逆にいつもの薬だけもらうつもりで受診したら想定以上に検査が多くて「本当に必要な検査だったのか」と懐疑的になったりした経験はありませんか。これは例えば、抗生剤の害が益を上回るという判断であったり、検査前確率が低くて検査の有用性が低いという判断であったり、逆に受けるべき検査をこれまで受けてこなかっただけだったのかもしれません。正しい医療が行われているにも関わらずミスコミニュケーションによってそれが理解されず信頼を損なうようでは医療の本来の役割を果たせないことになります。
こうしたミスコミニュケーションの根底には医療へ期待と現実とのギャップが一因としてあります。偽らざる現実として、「毒を以て毒を制する」が医療の本質です。誰しも効果が高くて副作用のない薬を期待しますが、現実的に効果と副作用は不可分であることが少なくありません。病気という毒と治療という毒のどちらがましかという判断を行うのが医療です。毒にも薬にもならないものを扱うなら医療は要りません。抗生剤の害が益を上回る場合には患者さん御本人のため、公衆衛生のため、希望されても処方しないのがあるべき医療です。そして検査もまた万能でないという現実は新型コロナウィルスの検査で広く知られたところです。採血で何十項目か評価すれば健常であっても確率的に異常値が出てきてしまいますし、あまり病気が疑わしくない状況での検査の的中確率はコイントスに劣る場合があるという現実があります。絶対視するのでも疑問視するのでもなく等身大の医療をご理解いただき、一緒に現実的な最善解を見出すというのが医療とのあるべき付き合い方です。
医学とは予測と予防の学問です(https://www.jstage.jst.go.jp/article/circrep/2/1/2_CR-19-0111/_article/-char/ja)。
問診や身体所見や検査所見等の医療情報から、どの程度既存の疾患の枠組みに当てはまるかの診断予測と、今後どうなっていくか予後予測・重症度予測を立てて、それに基づき疾患の発症予防・重症化予防を行うのが医療の基本骨格です。「風邪」という普遍的な疾患が存在して、リンゴが手を離せば必ず落下するのと同じようにこの薬を飲めば必ず病気が治る、というものではなく、あくまでも医療は予測確率に基づいているからこそ上記のようなギャップが生まれます。また、予防・治療という点において、病態を解明して今ある病気を治療することと、発症予防として未だない病気のリスクを下げるということは異なる視点で捉える必要があります。高血圧は未だない病気のリスクとしての「高血圧症」であって、治療しなければいけない「高血圧病」ではありません。ここを正しく理解していないと、日々の血圧の乱高下に心も乱高下する生活を送るようになってしまいます。
本講座は、医療の知識ではなく、こうした医療の基本的な考え方を多くの方にご理解いただくことを目的としています。今や情報格差を理由に医師主体で方針を定める時代ではありません。「根拠に基づく医療(Evidence Based Medicine)」、すなわち患者さんが医学知見と医師の視点、ご本人の価値観を統合してご自身で意思決定を行うのが現在の標準的医療です。皆さんが必ずしも医学知見に精通している必要はありません。調べればいくらでも関心の症状や病気についての情報を得ることができます。ただ玉石混合の情報から正しい知識を選び抜くにも、その知識を正しくご自身の判断に使うためにも、医療の基本的な考え方や何を正しいと考えるべきかについて共通理解があることが望ましいと考えます。
病気にかからない人はいません。そしてその時は突然にやってきます。病気の知識は困った時に個別に調べればよいですが、その基本的な考え方はすべての国民が備えとして知っておくべきものと考えます。本講座を通じて多くの方々が医療の基本的な考え方を理解し、医療への信頼感を醸成することで、社会における後方支援としての役割が最大限発揮できることを望んでいます。
講座の様子。当院の広いリハビリスペースを使用して実施しています。
これまでの市民講座
- 第1回 2022年5月29日
その「安心」の落とし穴~個人の安全保障としての医療の基本的な考え方~ 講師:岩上直嗣 - 多くの方が「安心」と誤解していること、例えば「血圧下がっていれば安心」「抗生剤を飲めば安心」「毎年検診・健診受けていれば安心」「大きな病院にかかっていれば安心」といった事例についての正しい考え方についてお話をしました。医療は①目の前の病気の病態を解き明かし治療するという視点と②未だない病気の発症や重症化のリスクを下げるという視点、さらに③社会の枠組みの中で個別医療を最適化するという視点で一人の患者さんと向き合います。理解されにくく誤解を生みやすいのは②と③の部分です。リスクというものを正しく理解して正しく備えるということがどういうことかを上記事例に基づいてご理解いただきました。併せて日本の医療提供体制の中でどのように医療機関を利用すべきかについてお話をしました。
- 第2回 2022年7月31日
どの医療情報が正しいの? ~個人の安全保障としての医療の基本的な考え方~ 講師:岩上直嗣 - 現在の標準的医療は「根拠に基づく医療(Evidence Based Medicine)」、すなわち患者さんが①医学知見と②医師の視点③ご本人の価値観を統合して意思決定を行うことを基本的価値観としています。これは、例えば高血圧で受診され精査の結果、①10年間の重大な心疾患の発症確率が医学研究に基づき2%との見込みで、②病態や副作用のリスク、費用対効果等を総合的に考えると降圧が望ましいというのが医師の意見だけれど、③ご本人は、外来に通院する手間やコストが2%に見合わないという判断で降圧治療を受けないといったように、最終的に患者さんが意思決定を行うということです。そのためには、備えが必要です。医学の知識を身に着ける必要はありませんが、その成り立ちを知り、科学的妥当性が高い医療情報を集める方法を身に着け、集めた情報に基づいてご自身で判断する力、すなわち「10年間の心疾患の発症確率が2%」がご自分にとって高いのか低いのかの判断基準を持つことが、いざという時の備えとして必要であると考えます。そうした観点から講演では、近年広告などで目にする「ヒト臨床試験」の科学的妥当性について具体的に言及しながら、個々の医学研究や医学情報に惑わされずに俯瞰的に統合して医学知見をとらえることの大切さをご理解いただきました。併せて判断基準を醸成するための頭のトレーニングを行いました
- 第3回 2022年9月25日
その検査に何の意味があるのか?~個人の安全保障としての医療の基本的な考え方~ 講師:岩上直嗣 - 特定健診の受診者が増える時期に合わせて医学検査の持つ意味を掘り下げました。コロナ禍で露呈した通り検査は絶対的なものではありません。検査前確率が低い中で検査を行ってもその的中確率はコイントスに劣る場合もあります。何でも検査を受ければよいというのではなく検査は戦略的に組み立てられるべきものだというということを具体的、定量的にお示ししました。肺癌検診で肺癌を同定する精度はX線で60-74%、CTで93-94%とされています。医療費や放射線被ばくを天秤にかけて「大丈夫」をどこまで追求するかというお話をしました。
- 第4回 2022年12月4日
痛みを取る整形外科・答えを出す内科~日本型かかりつけ医の在り方とは~ 講師:高橋 世賢・岩上直嗣 - 病院中心に進められてきた日本の医療計画の先に診療所の診療の質の充実があります。癌・循環器病の法制度が確立し疾病対策ならびに病院診療の高度化・均てん化が進められてきた現在、これまで以上に疾病に至る前の発症予防や、早期診断により病院診療に早期につなげる必要性が高まっており、日本に適したかかりつけ医の在り方が模索されています。「どこにかかればよいのかわからない」「近医で大丈夫と言われたけど結局癌だった」「よくわからないまま大病院に丸投げされた後も「ウチじゃないよ」とたらい回しで結局うやむや」「大病院の複数専門科で定期的に全身検査して安心していたけれど実は誰も全身を診ていなかった」といった問題は、医療提供体制の課題です。その実情をご理解いただいた上で、当院がどのように社会課題の解決に取り組んでいるかをご紹介しました。
- 第5回 2023年3月19日
循環器病を知り己を知れば百戦殆からず~高血圧から心臓移植まで~ 講師:岩上直嗣 - 循環器病(脳卒中を含む心血管疾患)は癌に次ぐ年間31万人の死亡原因、医療費に占める割合も19%と最多の国民病で、さらに要介護の原因疾患として21%と最多、 救急搬送の原因としても16%と高割合です。何より大切なことは、循環器領域はその特性上予測精度が高く、有効な治療法の研究開発及びその均てん化もある程度進み、個別疾患対策法も整備された「課題先進領域」であり、その制圧に向けて医療現場のみならず産官学が連携して取り組む道筋、そこで炙り出されるUnmet needsは今後の医療の方向性を指し示すものであるということです。講座では循環器疾患とその治療の概要ならびに、日本循環器学会の5カ年計画検討委員等として我が国の循環器病医療と多層的に向き合ってきた経験に基づき、医療研究開発の概要や医療政策の全体像等、医療を支える社会の仕組みについてお話ししました。